『海賊達の宴』(2012年・インド)とキングフィッシャー
世界最大の映画産出国と言えば、インドである。
アメリカ人はハリウッドこそと主張するが、それは真実ではない。
実際にはボリウッドやトリウッドと言ったインド映画が世界で最も作られているのである。
インド映画というと日本でも一定の人気がある。しかし国内でメジャーに放映されるのは一部の大ヒット作のみである。つまりほとんどのインド映画は日本人の知らぬところで公開されているのだ。
『海賊達の宴』(原題: माफ़ करना। ओड़ा-सेन्सि।)
もそうやって日本に入ってこなかった映画のひとつだ。もっとも自分もこの映画を知ったのは偶然だ。偶然、知り合いのインド人から「兄弟、日本人ならこれを見た方がいい」とわかりづらいインド英語の手紙と共に送られてきたのだ。最初は何を言っているのかわからなかったが観てみるとその意味がよくわかった。ちなみにこの邦題はその友人がつけたものだ。なかなかセンスがあると感心した。
さて、彼がなぜこの映画を「日本人」にお薦めしてきたのか…。それはその内容にある。
この映画は日本のある大ヒット漫画にそっくりなのだ。いや、そっくりというにはあまりにも…ただのパクりだ。
笑える映画に合うビールとしてキングフィッシャーを用意した。イギリスがインドにもたらしたものの中で数少ない良いものだ。
映画は急なモノローグから始まる。 悪意をもって翻訳するとこうだ。
「クミン、コショウ、ターメリック。この世の全てのスパイスを手に入れた男、航海王ヴァスコDガマ。彼の残した一言は男たちを海へと駆り立てた!『おれのガラムマサラか?欲しけりゃくれてやる。探せ!この世の全てをそこにおいてきた!』世はまさに…(タイトル、バーン)」
…まあまんまである。いや、まだだ見ていけば違うかもしれない。信じろ。と自分に言い聞かせて続きを観る。 辺境の村に住む少年、ルピーもヴァスコDガマの宝を夢見るひとり。彼はある日マハラジャのサンカスと出会う。サンカスに命を救われたルピーは成長し、マハラジャになるために航海王ヴァスコDガマが残したガラムマサラを手に入れるため希望峰を目指すというのが物語の大筋だ。
ここまで読んでくれればわかるだろうが本当に大体パクリだ。
ルピーはヨガの力で体が伸びるし、途中で出会う仲間達はクシャトリアで剣士のゾロー、スードラのナミン、ヴァイシャのソッパー、カレー職人のナンジをつれて旅を続ける。
途中で東インド会社との小競り合いをしつつ、ナミンの所有者であるアロンから彼女を解放するためにルピーが戦いに行くという展開を見せる。
誰がどう観たって世界一有名ならあの漫画の海賊一味である。
日本で公開できない理由が一目瞭然だ。
どう考えてもパクリなのに散りばめられたインドテイストと映像の謎のクオリティの高さにもう笑うしかない。
ルピーがナミンの鎖をちぎりアロンにヨガヨガの斧をくらわすシーン(インド映画なのでダンスバトルだが)など思わず胸が熱くなる。
ご丁寧に音楽まで似せてある。思わずポケット〜にクミーンと歌いたくなってしまう。
…まあこんな映画が作られるのも一重にワンピースという漫画の偉大さ故であると思いながら空になった瓶を眺める。
ハリウッド版はこうならないといいなあと祈りつつ…。
ワンピース最高。
今夜も酒がうまい。
『ゲルニカ』(2019年・日本)と泡盛コーヒー
幼馴染から自家製の泡盛コーヒーをもらった。
泡盛のコーヒー割りだがこれがめちゃくちゃに飲みやすい。
すぐに酔いがまわる。ので映画を観る。
今回は『ゲルニカ』(2019年・日本)
公開時のキャッチコピーは「芸術は爆発だ」
この映画が公開された年、2019年は奇しくもバンクシーの絵が東京で発見されたあの事件が起こった年であった。
西日本のある離島で暮らす高校生の哲夫。東京の美大に行き絵描きになることを夢見ながらも、保守的、閉鎖的な集落に暮らす両親からは理解をえられずにいた。
ある日、島に現代芸術家を名乗る男、四郎が移り住んでくる。
島の活気を取り戻すために四郎を煽て利用しようとする大人たち。
島の海の幸、山の幸で、贅の限りを尽くした料理でもてなそうとするが四郎はそれをカップラーメンを食べ始める始末であった。破天荒な芸術家…というよりもその無骨でメタボ気味な中年からは考えられないほどロックンローラーのような感じだ。
しかし、その芸術は荒々しくも繊細で、最初は穿った目で見ていた哲夫は集落の中でただ1人、四郎を本当の意味で認めていく。そして四郎もまた哲夫の腕を認め、彼らの芸術が2人を結びつける。「芸術は心だ」と四郎がいうシーンには彼の不器用さと真っ直ぐな人間性が表されているように見える。やがて2人は奇妙な師弟の関係のようになっていく。
そんなある日、島の老人が偶然手に入れたゴシップ誌に四郎が乗っているのに気がつく。
記事によると四郎が本土で反社会的と烙印を押され芸術界を追放されていた男だということだった。問い詰める集落の大人たち。島の観光化どころではない。保守的な集落の面々は様々に罵詈雑言を飛ばした。政治的、人間的な嘲りに無言を貫く四郎。しかし自らの作品に言及された時だけは違った。
「だいたいお前の芸術なんて意味のわからんものばかりじゃないか!都会で、この島でどんなものを作ってきたのか知らんが、お前の芸術なんて偽物だ!この嘘っぱちめ!」こう詰め寄った男の胸ぐらをつかみ四郎はこう言い放った。
「食ってもねえラーメンのレビューなんてできるのかよ」
食ったことないラーメン。それは見たことのない作品の比喩表現だ。誰も味を知らないままうまいまずいを判断できない。芸術も同じだ見たことがない、触れたことがない作品に何を言ったってそれは根拠のないヘイトスピーチにすぎない。
冒頭でバンクシーの絵について触れた。
法律上は落書きで取り締まられるべきものだが東京都は保護し、こともあろうに額縁に入れて飾った。ご丁寧に『バンクシーのものと思われる絵』というタイトルまでつけて。
愛知県で行われた展覧会で市長が座り込みの抗議活動を行い話題になったのもこの年だ。
「芸術とは何か」
深く深く横たわるこの問題は未だに答えなき問いで、この映画の主題だ。
それは受け取る人間の感情、教養、常識、良識その他様々な要素によって変わっていくのだろう。そういう意味で芸術とは酷く曖昧なものだ。しかしその曖昧さによって芸術とはきっと輝くのだ。
昨今の日本の芸術に関する姿勢をバンクシーはどう見たのだろう?
顔も知らない彼の冷笑が浮かぶような気がした。
今夜も酒が美味い。
『サンタモニカの長い1日』(1971年・アメリカ)とグレンフィディック
アメリカンニューシネマと言う映画群をご存知だろうか?
60年代から70年代にかけて作られたアメリカの映画の総称だ。
それまでハッピーエンドが主流だったアメリカ映画。
その典型例を打ち壊し反体制的や反抗的なテーマを取り込んだのがアメリカンニューシネマである。
特徴として、当時の慣習や常識では信じられなかった常識破りな事をシーンとしていれたり、登場人物に無慈悲に唐突に訪れる死などがあげられる。
有名な作品としては『イージー・ライダー』や『カッコーの巣の上で』などがある。
『サンタモニカの長い1日』(原題:Cafe Santa Monica)もアメリカンニューシネマに属する映画のひとつだ。
重い映画には重い酒を。そう思ってグレンフィディックを開けた。爽やかな香りのするシングルモルト。正真正銘、本物のスコッチウィスキーだ。
あるアメリカの片田舎の町に立つカフェ・サンタモニカ。店主のウィリーは繰り返される毎日に嫌気がさし行った事の無い町、サンタモニカに憧れを抱いている。ある朝カフェに初老の男が訪れ。カフェに訪れた人々と町の住人達が織りなす「普通」の日常を映す群像劇。
この映画にあらすじらしいあらすじはない。
というと語弊があるが、この映画は町の人々の日常を切りとっただけの作品であるのだ。
この映画のテーマは平たく言えば「アメリカという幻想」
それは最初にカフェを訪れた初老の男のセリフに象徴される。
映画は初老の男がカフェ・サンタモニカに訪れるシーンから始まる。男はコーヒーを頼むと店主のウィリーに尋ねる。
「このコーヒーはどこ産のものかね?」
「コスタリカ産ですよ。本物の」というウィリーに初老の男はこう言い放つ。
「本物なんてありふれて曖昧な…しかし本当の物を私は探していたんだよ」
このセリフこそがこの映画の主題のように思う。
当時のアメリカを取り巻いていた事情に思いを馳せる。
ベトナム戦争、学生闘争、公民権運動など今までの社会での常識が打ち砕かれ人々は新しい価値観を求めていた時代。それは今までの「本物」の汎アメリカ的なものの瓦解と新しい「本物」のアメリカという物を模索していくということである。
物語の登場人物も時代に翻弄されていく。
町の名家である敬虔的なキリスト教家族に育てられた娘、マリーは婚姻前に妊娠したことで彼氏ジョセフからも家族からも見捨てられて絶望の淵に立たされる。
ジョセフもそれがきっかけでドラッグのやりすぎで精神を病み半狂乱となり、警官に射殺されてしまう。
家族は上辺で理想の家族を装うが母親は不倫を、息子は学校でいじめを繰り返す。
そんな繰り返される毎日の中でも人々は何かにすがり、それぞれの「楽園」を追い求めている。
人々が模索し、本物を模索していた時代。
その姿はある意味で今と変わらない。
古き良きアメリカという幻想の瓦解を描いた隠れた名作だ。
今夜も酒がうまい。
※この記事で紹介している映画の存在はフィクションです。実在の人物、団体とは関係ありません。
『最悪な選択』(2016年・アメリカ)とバドワイザー
人は人生の中で何度大事な選択を迫られるのだろうか?
人生は選択の連続。進学、就職、結婚。様々な場面で選択が必要となる。
また逆に、選択できない事柄もある。生まれてくる時代や国、肌の色。子は生まれてくる親を選べないし、また親も子を選ぶことができない。なんとも理不尽でうまくいかないものだ。
そんな時はライホルトニーバーの祈りを思い出す。
「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。」
現代アメリカの思想に多大な影響を与えた彼の言葉に象徴される様に人生には選択出来ることと、運命かのように選ぶことができない物事がある。
近所のコンビニでバドワイザーを買った。
薄い飲みやすいビールだ。夏の暑い日に公園の芝生の上で飲むのに最適な軽薄さだ。
そんなビールを飲んだものだから、軽薄な映画を観たくなった。
2016年のアメリカのコメディ映画
『最悪な選択』(原題:Life of Jack・J・Johnson)
原題を直訳で「ジャック・J・ジョンソンの人生」
なんとも安直なタイトルだ。タイトルからもこの映画の薄っぺらさが伝わってくる。
その名の通り主人公ジャックの数奇で平凡な青春を描いたコメディ映画だ。
簡単にあらすじを書いていく。
カルフォルニアの田舎町に住むジャックは何をやっても裏目に出てしまうオタクな高校生。アメフト部の連中に目をつけられ、いじめられ、平均以下の高校生活を送っていた。そんな彼はある日親友のバリーに持ちかけられ脱童貞を決意する。
くだらないよくあるB級映画だが、どことなく生きる残酷さと悲哀さを感じることがある。
主人公のジャックは生まれながら悲惨だ。
本名はジャック・ジョン・ジョンソン。母の祖父からジャック。洗礼名としてジョンと名付けられる。母親はカトリックの信徒だが、そうではない父親が洗礼名の事がよく分からず役所に申請したため、戸籍上、彼の名前はジャック・ジョンとなる。その名前のため幼少期からいじめの標的にされていた。
高校の最後にイメージを払拭するため「J.J.」と周知するがJ.J.エイブラハムの『スターウォーズ/フォースの覚醒』がクラスで流行していたため結局いじられキャラになってしまうという一連の笑えるシーンでもあるが、よくよく考えてみると悲惨な人生だ。名前という変えられない宿命を背負わされ勝手にからかわれる。「人生は遠くで見れば喜劇だが、近くで見ると悲劇だ」とはよく言ったものである。
とは言いつつもこのコメディがコメディたる所以はちゃんと人間のゲスさを描くからだろう。
ジャックと親友のバリーがクラスのどの女子で童貞を卒業するかを選ぶ、「やりたい女子トーナメント」のシーンは傑作だ。クラスの女子をトーナメント表に書きどっちとやりたいかで決めていくシーンのゲスっぷりは逆に清々しくもある。
他の登場人物もゲスさを秘めているが…これ以上はネタバレになってしまうのでやめておく。
あまり話題作として挙がらない本作。だが映画ファンの間ではあるセリフが少しだけ話題となった。
主人公ジャックとバリーは童貞卒業計画の一部でBBQパーティーを企画。誘ったルーシーがアメフト部の男達を連れてきてしまうと言うハプニングがありながらも長年の蟠りを解消するチャンスとも考え順調にパーティーは進む。ほとんどが計画通りに進みジャックがルーシーと2人きりになりパーティーが盛り上がっているその時、コンロの火の不始末とアルコールで火事となり死傷者は出なかったものの自宅が全焼。
参加者からは恨まれ、家も失った状態で行きつけのコミックカフェでバリーがジャックに尋ねる
「これからどうする?」
力なくジャックが返す
「何度でも蘇ってやるさ。スパイダーマンの様に。新作になってね。」
しかし逆にこのセリフほどスパイダーマンの歴史を端的に表した表現はあるだろうか?
スパイダーマンほど愛され、何度も新作が作られてきた映画はあるだろうか?
つまりスパイダーマンは最高。
今夜も酒がうまい。
※この記事で紹介している映画の存在はフィクションです。実在の人物、団体とは関係ありません。
空想映画館へようこそ(ご挨拶とご注意点)
空想映画館へようこそ。
日々、観ている映画を評価していこうと思う。
お酒でも飲みながら。
でもただの映画じゃない。
ここで紹介する映画は全て架空のもの。
大学のレポートとかに引用しても存在しないので、落第点をおされます。
ご理解の上お付き合いください。